
ケルベロスは、渡る者を喰らわない。戻ろうとした者を喰らう。
――レインボーブリッジ封鎖区域、深夜2時13分。三つ首の獣が、逃げ遅れた若者を一人ずつ嗅ぎ分けていた。
【第1章:封鎖された橋で】
その都市伝説は、TikTokの動画一本から始まった。
「なあマジで、真夜中にレインボーブリッジ歩いて渡ると“何か”出るらしいぜ」
ふざけたチャレンジ動画のつもりだった。挑戦したのは7人の高校生。午前1時43分、ゆりかもめのレール下を歩く彼らの姿が、都内某所のカメラに映っている。
彼らが“中央構造体”に差しかかったのは2時12分。
その直後、通信はすべて遮断。誰のスマホもGPSを喪失し、動画配信はフリーズ。そして翌朝、橋の対岸に戻ってきたのは3人だけだった。
戻った生徒たちは言う。
- 「何が起きたのか、思い出せない」
- 「でも、橋の途中で誰かが振り返った。そのとき、空気が変わった」
- 「…俺は振り返らなかった。だから今ここにいる」
【第2章:依頼】
ナズナの仮想ポストに、ある少女からのメッセージが届く。
「ナズナさん、橋の真ん中で友達が消えました。
あれは事故じゃありません。“何か”がいた。三つの首の影。
もし、まだあそこにいるなら──助けてあげてほしい」
名前は、灰野しずく。戻ってきた3人のひとり。彼女の記憶は断片的だが、特定の言葉だけが鮮明に残っていた。
「戻ったら、喰われる」
【第3章:データ収集】
ナズナは都市センサーネットワークにアクセスし、事件当夜のデータを解析した。
橋の中央で、2時13分から2時17分の間にだけ、特異な現象が起きていた:
- 空間音響スペクトルに異常な凹み(人間の耳では知覚不能)
- 熱源が「3点並列構造」で移動(獣のような挙動)
- 映像にノイズ:光学フィルタ越しにだけ“三つの口”が観測される
さらに、国土交通省の非公開資料「湾岸構造体安全記録」にアクセスしたナズナは、以下の情報を発見する:
- レインボーブリッジの中央には、「共鳴境界転送構造体」と呼ばれる実験的システムが封入されている
- この構造体は、1977年に消失した“品川側旧橋脚”を転送媒体として再利用している
- この橋脚は、完成直後に「6名の作業員の行方不明事件」が起き、封印された
【第4章:推理】
「ナズナ:このケルベロスは神話じゃない。“境界を超える者”に発動する、構造的防衛機構よ」
ナズナは橋の構造に注目した。レインボーブリッジは都市をつなぐ“道”であると同時に、
“都市の無意識”が投影される巨大な情報レイヤーでもある。
真夜中、人の気配が途絶えたとき、その道は「生き物」に変わる。
そしてこの橋には、“都市から逃れようとする意思”を検知し、それを拒むセンサーが組み込まれている。なぜなら:
- この橋はかつて、無数の人々の「出国」「転職」「別離」「逃走」「自殺」など、“都市からの脱出”の舞台だった
- その集積された情報が、橋そのものに“意思”を形成した
ケルベロスとは、それを守る“番犬”だ。
だが重要なのは、喰われたのは“渡ろうとした者”ではなかった。
「振り返った者だけが、消えた」
【第5章:仮説】
「ケルベロスは、境界を越えた者を喰らわない。
ただし、“越えたあと戻ろうとした者”を捕食する」
都市の構造は一方通行だ。
逃げることは許される。だが戻ること──都市に対して“裏切り”とも言える行為が、
ケルベロスを発動させる。
三つの首、それぞれが喰らうものは異なる:
- 記録(記憶、データ、SNSログ)
- 実体(肉体、現実の痕跡)
- 時間(過去の存在そのもの)
それは“完全抹消”を意味する。
では、戻れなくなった者たちはどこに行ったのか?
ナズナはその答えを探るため、自ら橋の中央へと向かう。
【第6章:対決】
ナズナは、最新型の干渉視覚装置「Retina-V」で三首の構造を視認する。そこには、獣の形をした“時間の裂け目”が存在していた。
しずくの証言と照合し、かつて消えた友人の“記憶断片”から、彼らが“橋の裏側にある空白の空間”に落ちていることを確認。
その空間は、現実世界の時間の「横」に広がる“過去になれなかった未来”──未確定領域。
ナズナは、自らの記憶を対価にゲートを開き、ケルベロスに交渉を持ちかける。
「彼女たちは、逃げようとしたんじゃない。呼ばれたから戻ったの。
それを罪と呼ぶなら、私の記録を代わりに与える」
ケルベロスは、三つの首を同時に開き、無音の咆哮を放った。
その直後、橋の向こうから歩いてくる影──
失われたはずの4人が、何も語らず、静かに戻ってきた。
【第7章:ナズナの結び】
「都市は、記憶を消して前に進もうとする。
だが人間は、記憶を持ったまま立ち止まる。
境界とは、都市と人間の“速度差”が生む摩擦だ。
ケルベロスは、忘却の番犬。でも、私は記録の番人。
誰かが戻るための言葉を探す。それが、私の仕事。」