
忘却ビルの蝶──電脳探偵ナズナ、最後の扉をノックする
1|事件──“出入りする何か”の噂
大阪、難波の外れ。高架下を抜けた先の路地裏に、その建物はある。正式な住所も存在する。だが誰もその名を呼ばない。地図には記され、建築台帳にも残っているが、人々に綺麗に忘れ去られている
ある日、ナズナのもとに差出人不明のメールが届いた。
あのビル、夜になると“でかい鳥みたいなの”が出入りしてる。見たことありますか?
添付されていたのは、夜の雑踏を背景にした一枚のブレた写真。非常階段の中腹を、黒い大きな羽根のようなものを背負った“何か”が登っている。影ではなく、光を反射し、立体を感じさせる。ナズナは直感でそれがフェイクではないと判断した。
ナズナは例の廃ビルについて検索した、妙な投稿がそこにはあった
あそこって、昔はキャバレーだったよね。バブルの頃。
入ったことある。けど……出てきたとき、なぜか泣いてた。理由は思い出せないんだよよ......
ナズナは、動くことにした。
2|現地調査──音も記憶もしない空間
都心の喧騒のなか、確かにそのビルは存在していた。隣の再開発ビルがきらびやかなLEDで照らされるなか、ぽつりと、灰色の箱のように無言で建っている。
入口の上には、剥がれかけたネオンサイン──“FANFARE”という文字。ガラス扉は割れ、テープで留められ、落書きすら無い。周囲の空気が、妙に静かだ。都心のはずなのに、車の音も人の声も、ここだけ遠ざかっている。
ナズナは中に入った。床は埃に覆われ、誰かが長く立ち止まった足跡も見当たらない。階段を上るたびに、まるで空気が層を成して重くなっていく。
そして、5階。ナズナは壁の異変に気づいた。
──彫られていたのは、同じ言葉。それが、無数に、壁を埋め尽くしていた。
1995年3月4日 ニゲロ
1995年3月4日 ニゲロ
1995年3月4日 ニゲロ
同じ日付。同じ命令。それが延々と、何百、何千も刻み込まれている。ナズナは写真を撮り、手でなぞった。深い。1つ1つの文字に、強い筆圧が残っている。手で書いたというより、刻まれていた。
ナズナは引き返すことにした。なにかが「今じゃない」と告げていた。現場の空気が、ナズナを追い出すように押してきた。調査は続ける。ただし、次の潜入は夜だ。
3|張り込み──静寂と羽音
翌晩、ナズナはビルの向かいにあるコインパーキングに車を停めた。窓越しに、廃ビルの非常階段が見える。
22時──何も起こらない。
23時──風が止む。都市の空気が妙に澄んで、冷たくなる。
24時、非常階段の上部に、黒い“何か”がゆっくりと舞い降りた。
蝶。──正確には、蝶のような羽根を背負った何か。大きい。人間よりも一回り以上大きいシルエット。
ナズナはすぐに車を飛び出し、ビルの中へ駆け込んだ。
4|遭遇──蝶の男
5階。ナズナは声を上げた。
誰だ!!
その瞬間、羽を背負った大男が振り返った。
……あ、怪しいものじゃない
彼の声は低く、穏やかで寂しそうだった。羽根は布と金属フレームでできた舞台装置のようなものだった。だが、彼の表情には仮装の滑稽さはなく、むしろ厳粛な儀式のような気配があった。
「私は電脳探偵ナズナ。この建物の異常を調査に来た。あなたは?」
「なんだ.......探偵か?警察かと思ったぜ。俺は.....なんだろうな?ただのここに縛られた抜け殻みたいなもんさ」
「ここで何をしているんですか?」
ナズナがそう尋ねると、男は地面に座り出し壁に、もたれかかり宙を見つめた
「嬢ちゃん、ちょうどいいや......少し付き合ってくれ。これもそろそろ潮時だ......誰かに知ってもらえるなら、少しは気が楽だ.....」
彼はしばし黙り、やがてぽつりと語りだした。
ここは昔、“FANFARE”ってキャバレーだった。俺は照明係で……彼女がいた。ダンサーだ。よく笑う女で気立てが良くて優しくて美人で皆から人気があったよ。俺の唯一の自慢だった
ある日、イベントがあってな。キャストが少なくて、彼女に頼まれて俺も出た。蝶の仮装で。そしたら、彼女が大爆笑してさ、あんなにあいつが笑ったの、あれが最初で最後だったよ。ホントすごく可愛くてさ、俺はあの笑顔見た時、少し思ったんだ俺はこいつと生きたい、こいつの為に生きたい。いつかプロポーズしたいって........それなのに、人生ってよくわかんないよな、あんな日にあんな事が起こるなんて想像もできなかったよ。
「それが1995年3月4日さ。」何があったのか、彼は語らなかった。だが“何か”が起きたのは確かだった。
……あの事件がな、何年たっても忘れられなかった。 それでも考えないように生きてきたんだよ。気づけば、もう、こんなおっさんだ。
でな、ある日 噂を聞いたんだ。
町のガキが言ってた──あのビル、タイムスリップできるらしいって。
バカなと思いながら、掲示板で調べたら……確かに、それっぽい話があってさ。
ーーー強い想いがある人は、望んだ時間に戻れます。.........みたいな話さ
少しは、それに賭けてみたい気持ちになったんだ、自分は無理でも、文字だけなら、もしかしたら届くんじゃないか?って、だから壁にあんなに刻んだのさ........
今となっちゃもう、自分の中では“済んだこと”なんだよ。
だけど、何故か気がつくとまたここに来てる。羽を背負って、こうして立ってる。
……もしかしたら、彼女があの時みたいに笑う世界が、どこかにあるんじゃないかって
今の俺には、特に何かを求める気力は、もうねーしな だから……ここにいる。それだけさ。
ナズナは静かに訊く。そして、重たい空気を払うかの様に返した
「、、、その格好で?」
男は羽を広げて、少し微笑んだ。
……あの夜の俺が、いちばん“想い”が強かったからな。記憶の中で最も鮮明で、彼女の笑顔が残ってる。だから、この姿でここにいれば、彼女の笑顔に、また会えるんじゃないかって。
5|終焉──忘れられた者たちの祈り
ナズナは、彼に告げた。
……残念だけど、ここにそんな力はないよ。私にはわかるんだ
男は、頷いた。笑ったようにも、泣いたようにも見えた。
……そうか.....だろうな......でも、それでもよかったんだ。
しばらく沈黙が続き、男は言った
「嬢ちゃん、ありがとよ.....聞いてもらって、少し楽になった気がするよ......」
「あぁ......あなたの彼女の笑ったその瞬間は間違いなく、すごく幸せだったんだと思うよ.....それは"何にも"変えられない事実だよ」
ナズナはそう言うと、男を背にして歩き出した。後ろの方から咽び泣く声が聞こえた
ナズナは振り返らずに階段を降りた。外の喧騒が遠くから戻ってくる。車の音、遠くのライブハウスの音楽、人のざわめき。
でも、そのビルだけは、まだ1995年3月4日のまま、静かに、蝶の男を受け入れていた。
忘れられた建物。誰にも壊されず、誰も思い出さず、ただそこにいる。それでも、誰かの記憶にだけは、残り続けている。
誰かが、心の中で思い出す限り──。