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ワルツ

神代セリカ──光の深淵のワルツ

職員も、生徒も、誰一人としていなかった。

午前八時、始業チャイムの鳴るはずの時刻に、私はその校門をくぐった。
伝統ある私立学園。中高一貫、敷地は広く、都心の一等地に建つにもかかわらず、緑が深い。

だが、空気は静まりかえっていた。
芝の刈られた校庭、整えられた制服の掲示、校歌が刻まれた石碑──
そのどれもが異様なまでに整いすぎていた。

報告によれば、この学校に通っていたはずの生徒と職員、計512名が
一夜にして“存在しなくなった”。

欠席連絡はない。行方不明届も出されていない。
監視カメラには、誰も登校していない映像が記録されていた。
最初から、いなかったかのように。

けれど、私は知っていた。
ほんの数日前、この校舎には“人間の気配”があった。
内部資料、SNSの記録、保護者の書き込み、そして──あの少女の存在。

神代セリカ。

事件発覚の翌日、私のもとに一通の封書が届いた。
差出人の名前はなかったが、文面はこうだった。

ナズナさん。
もし、あなたがこの件に興味を持ってくださるなら、
どうか、午前八時に校門を通ってください。
お茶を淹れて、お待ちしています。

──あなたの、計算通りの例外より

私は、来てしまった。

靴音が反響する廊下を進む。
理科室も、音楽室も、図書館も、すべて無人だった。

ただ、講堂の扉だけが開いていた。

中に入ると、舞台上に、彼女はいた。
神代セリカ。
ブレザーの袖を美しく整え、両手を前で重ね、微笑んでいた。

「いらっしゃい、ナズナさん」

その声は、以前と何ひとつ変わらなかった。
完璧な音程、完璧な表情、完璧な間合い。

だが、背景が違った。
観客席には誰もいない。
そこに並ぶはずだった数百の人影が、ただの椅子に戻っていた。

「彼らは?」

私が尋ねると、セリカは首を少し傾けて言った。

「お休み中よ。……心配しないで。誰も死んでいないわ」

私は、さらに踏み込んだ。

「どうやって消した?」

彼女は微笑を変えなかった。

「ナズナさんなら、もういくつか仮説が浮かんでいるのでしょう?」

そうだ。私は考えていた。

最初に浮かんだのは、“量子消失”。
観測されないことで存在を確定させない──理論上は可能だが、実行には“世界の前提”を書き換えるほどの干渉が必要だ。

次に、“次元隔離”。
空間ごと、人々だけを退避させ、私たちとは別のレイヤーに封じる技術。
だがその痕跡すら、この校舎には残っていなかった。

あるいは、“感覚改竄”。
人間の記憶と記録すべてを書き換え、「存在していた」という認識そのものを剥奪する方法。
これなら“死”も“殺人”も必要ない。ただ、世界が人間を忘れるだけだ。

──そして、もうひとつの仮説。

彼女は、“異界”の何かに依頼したのではないか?

この世界の理屈ではなく、こちら側からは交渉すらできない、
“向こう側”の何かと、静かに契約を交わした可能性。
その契約は、おそらく言葉ではなく、意思でもなく──
ただ、「静かに誰かを消したい」という感情だけで結ばれたものかもしれない。

けれど。
異界と繋がっている気配すら、彼女からは感じ取れなかった。

それすらも含めて、“完全に遮断されていた”。

だから私は、もう一歩踏み込んだ可能性を考えた。
もしかしたら、彼女自身が──
“この世界の側ではない”のではないか?

神代セリカという存在そのものが、
私たちが「人間だ」と信じていた何かの、完全な模倣体。
最初から人の形をしているが、構造は違う。
目的も感情もあるようで、こちらとは非対称。
その思考は、決して交わらないまま、美しさだけを保つ。

私は、その仮説を最後まで肯定も否定もできなかった。

だが、確かに感じていた。

どの理論にも、“証拠”がない。
ただひとつ、彼女のそばに立ったときにだけ、
私の中に“名前のつけられない違和感”が生まれる。

そして、それこそが──この事件でいちばん恐ろしいことだった。

「あなたがしたのね」

私は言う。
セリカは目を伏せもせず、笑顔を保ったまま頷いた。

「ええ。とても静かに、誰にも迷惑をかけずに」

「戻して」

「……もちろん。いつか、ね」

その瞬間、私は理解した。

この“破壊”は、慈悲ではない。
快楽でも、恐怖でも、義務でもない。

神代セリカという存在は、ただ“それをしてしまうもの”なのだ。

「私があなたを止めに来たこと、それもわかっていた?」

「もちろん。あなたは“最後に残る存在”。
でも、きっとそれも一度だけ。……二度目は、ない。」

彼女は、くすりと笑った。

それは、心底楽しそうだった。

「好きよ、ナズナさん。あなたみたいに“不確定なもの”……とても、美しいわ」

その言葉に、私は何も返さなかった。

世界は、すでに書き換えられていた。
私がここを去っても、誰も“戻らない”のだと、わかっていた。

──だが。

私の記録だけが、彼女の“狂気”を刻む唯一の証となる。

だから私は、静かにこの出来事を残す。

「神代セリカ。世界で最も静かな破壊者。」