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ダム

巨体の目撃者証言

──見たんだ。

夜のダムで。僕は、はっきりと。

あそこは、もともと心霊スポットとして有名だった。

ネットの噂曰く、夜中に笑い声が聞こえるとか、写真に人影が映るとか。

でも、近年は事故もなく、亡くなった人もいない。

「安全な心霊スポット」──そんな言葉を信じて、僕は行った。

夜の鉄橋を肝試しのグループとともに歩きながら、僕はカメラを構えていた。

──でも、あれは違った。

僕が見たのは、幽霊なんかじゃない。

もっと……原始的で、凶暴で、理解を拒む“生きているもの”だった。

2|遭遇──通路に喰らいつく巨獣

鉄橋の上、肝試しグループが通り過ぎたその瞬間。

ふと振り返ると、20メートル下のダムの水面が──

──音もなく割れた。

そこから現れたのは、クジラのような、ワニのような、30メートル近い巨体。

全身がぬめりと骨の質感をあわせ持ち、肌には鈍い灰銀の光沢。

口は異様に大きく、フォルムは巨大なオオサンショウウオに酷似していた。

目はない。だが、左右の頭部から胸部にかけて、まるで目や呼吸孔のような孔が100以上、対称に並んでいた。

その巨大な口が、通路にむしゃぶりついた。

その後、一瞬そいつは僕のほうを見た気がした。目がないのに、確実に。

声も出せなかった。けれど、僕の中の“生物としての恐怖”が全力で叫んでいた。

直感が言っていた。「こいつから離れろ、ここにいると終わる」と。

3|ナズナへの依頼

──僕は、逃げた。

何かに追われたわけじゃない。けれど、逃げるしかなかった。

全身の筋肉が勝手に動いた。寒気と吐き気が同時に込み上げ、視界が震えていた。

足元がふらつき、転びながらも僕は走った。まるで心臓が“そこにいてはいけない”と怒鳴っているようだった。

警備員のおじさんは、ダムの柵の向こうで静かに懐中電灯を振っていた。まるで何も起きていないように。

あの化け物の気配を、あの人は感じていない? それとも──知っていて、見て見ぬふりをしている?

そのまま僕は、無言でダムを後にした。足を引きずりながら、ただひたすら、あの“無数の眼”から逃げるように。

帰宅しても、身体の震えは止まらなかった。風呂に入っても、寒気がした。

そして、目を閉じるたびに、あの口が──通路を喰らった瞬間の、異様な光景が──脳裏に焼きついていた。

僕はもう、平常に戻れないと思った。笑えないし、食べられない。まともに眠ることもできない。

だから、どうしようもなくて、唯一の手段を選んだ。

ナズナ。──都市伝説の真偽に、論理と観測、高度な科学と超常的な能力で踏み込むという“電脳探偵”の存在を、僕は前から知っていた。

匿名で投稿フォームを開き、短く書いた。

「……あれが何か、わからないと、僕はもう眠れないんです」

それは半分懇願であり、半分告白だった。

4|ナズナの調査

ナズナは依頼を受けた数日後、夜のダムへと向かった。

同行するのは、彼女の補佐を務める青年──総一郎。

二人が車で到着したのは、日付が変わる直前だった。

空は雲もなく、風もない。ダムの空気は、どこか不自然なほど“整って”いた。

ライトを頼りに足元を進む。けれど、ナズナは途中で立ち止まり、微かに眉をひそめた。

「……聞こえる?」

「何が、ですか?」総一郎が返す。

「そう。“何が”、聞こえる。風も、草の擦れも。生き物の気配が、抜け落ちてる」

静かすぎること。それ自体が“不自然”だとナズナは捉えていた。

そして、ダムの縁まで到着した瞬間──ナズナは立ち止まり、風を読むように目を細めた。

「……来るわ」

まるで予感のように、空気の粒子の揺らぎで“それ”を察知した彼女が、小さく息を呑む。

──そして、現れた。

静かに、水面がざわつく。波が、押し寄せるのではなく“押し上げられる”ようにして広がる。

その中心から、黒く巨大な“塊”が浮かび上がってくる。

30メートルを超える巨体。

顔のようなものはなく、ただ口が異様に大きく開いていた。

左右に並ぶ、目のようでも呼吸孔のようでもある無数の穴──それらが同時に収縮し、まるで“吸気”のような振動を周囲に与えた。

そして、咆哮。

「ヴェーーーーーーーーーーーーーー」

その声は、空間そのものを揺らす“低周波の音圧”だった。

耳ではなく、骨で聞くような感覚。心臓が揺れ、肋骨が軋む。

ナズナは、動かなかった。

ただ、その姿を冷静に観察し続けていた。

「……これは、言葉にはしてはならない」

「目撃しても語ってはいけない」

総一郎が、声をひそめる。

「ナズナさん……?」

「油断しないで“陸にも上がれる”はず。けれど、“見られている”と認識した瞬間しか敵意は表さないはず」

ナズナの声は静かだったが、確かな重みがあった。

語ってはいけない。

それが、この存在の“ルール”なのだ。

5|それでも、残されたもの

依頼人は、再調査後の映像を見ながら、うなだれていた。

ナズナはただ、黙ってそれを見て言った。

「“記憶”には残さない。口外もしない。……それが、一番よ。このデータも後で消すわ」

「それが人間にとって一番安全なのよ」

総一郎が最後に問う。

「ナズナさん。じゃあ……あれは何なんですか?」

ナズナは微笑を浮かべ、ただこう返した。

「それは……さあね......」