
夕焼けは、あの日から止まっている
────────────その封筒は、ナズナのもとに直接届いた。
差出人不明。消印もない。
ただ、中には一枚の紙だけ。「彼女を、知っていますか?」
添えられていたのは、古びた小さな写真だった。
夕暮れの屋上、フェンスの前に立つ少女の後ろ姿。学校名もわからない。制服は古い型。
何より、その場所自体が──現存していなかった。私は、調査を開始した。
ただ“誰かの胸の中”だけに残された存在を。
ワタシさー、〇〇なんだって......
ぼくは、今でもあの光景が忘れられない。
なにかを失ったわけでもないのに、胸が締めつけられるような夕焼けだった。
風が少し強くて、空気が乾いていた。
舗道の影が長く伸びて、世界は静かに赤く、透明になっていく時間。
彼女は、屋上のフェンスの前に立ち髪をなびかせていた。
そのとき、ふいに言った。
「ワタシさー、〇〇なんだって」
何の前触れもなかった。
何気ない口調だった。
風の音にまぎれるようにして、ぽつりと。
でも、ぼくはあの瞬間、世界の音がすべて途切れたのを確かに感じた。
それはまるで──心の奥にしまっていたガラス細工を、無造作で乱暴に何かに踏みつぶされたみたいだった
ひとつ間違えれば、全部壊れてしまうような。
そんな言葉だった。
「えっ」と言いかけた声が出なかった。
返事をするタイミングは、とっくに過ぎていた。
彼女は空を見上げて、「今日の空、けっこう綺麗」とだけ言った。
その横顔に、なぜか悲しさはなかった。
それが、ぼくと彼女の最後の会話になった。
始まり
彼女との出会いは、ほんとうに偶然だった。
小さな駅前の書店で、ぼくが本を床に落とした。
しゃがんで拾おうとしたら、先にその本を手に取ったのが、彼女だった。
「難しい本読むんだね」
そう言って渡してくれた。
よく見ると、彼女も同じ作家の棚の前にいた。
どこか少し風変わりで、でも近づきがたい感じではなかった。
その次に会ったのは、放課後の帰り道だった。
夕陽の射す坂道で、彼女はひとりでアイスを食べていた。
声をかけたら、何となく会話が続いた。
「アイスって、溶けるじゃん。
……でも、それがいいんだよね。
溶けるから、ちゃんと今食べなきゃって思うし、
なくなるから、大事にできる」
「……あ、なんか今の名言ぽかった?」
「いや、そういうのじゃなくて、
こういう瞬間だけ、ちょっとだけ自分のこと好きになれる気がするの」
「でも気のせいなんだけどね。家に帰ると、すぐ忘れちゃう」
その言葉を聞いたとき、ぼくはうまく笑えなかった。
なにかを抱えているのがわかっても、それが何かは、やっぱり聞けなかった。
それから、少しずつ、たぶん週に2〜3回くらい。
ぼくたちは、決まって“夕方の帰り道”だけの関係になった。
駅の裏、誰も通らない道を歩きながら、
しょうもない話をして、空を見上げて、たまに黙って並んで歩いた。
「夕焼けって、なんか安心するよね」
「でもちょっと怖くない? 終わりみたいで」
「うん……終わりかもね」
そんな、誰にも聞かれないような言葉だけを、交わしていた。
彼女は、自分のことを多くは話さなかった。
家がどこか、学校のこと、友達のこと。
ぼくは気を使って聞かなかった。
聞けば、何かが崩れそうな気がしていた。
それでも、彼女がそこにいて、夕焼けがそこにあれば、それでよかった。
でも、ある日を境に、彼女は姿を見せなくなった。
いつもの時間、いつもの道を歩いても、どこにもいなかった。
連絡手段もなかった。名前すら、ちゃんとは知らなかった。
知っていたのは、彼女の横顔と、声の調子と、夕焼けの時間だけ。
誰に聞くこともできない。自分の無力さと孤独でうつろな日々が過ぎた
図書館にも、書店にも、痕跡すらなかった。
あんなに、いつでもいるようだったのに
その数日後、自宅のポストに一通の封筒が入っていた。
誰の名前も書かれていない、真っ白な封筒だった。
中には、小さな紙切れが一枚だけ。
「いつもの屋上に来てください」
彼女はそこにいた
風が強くて、髪が少し乱れていたけど、彼女は何も気にしていない様子だった。
金網越しに街を見下ろしながら、どこか遠くの景色を探しているようだった。
ぼくが近づいても、すぐには振り返らなかった。
声をかけるべきかどうか、一瞬だけ迷った。
でも彼女の肩の揺れで、ちゃんと気づいているのはわかった。
「ねえ」
彼女は、静かに言った。
「なんかさ、こうやって屋上にいると、空の音って聞こえる気がしない?」
彼女の声は、夕陽よりも淡く、どこかに溶けそうなほど静かだった。
目元は赤くて、でも泣いていたのかどうかはわからなかった。
そして唐突に
彼女の声で放たれた、あのたったひとつの言葉。
「ワタシさー、〇〇なんだって」
それがなんだったのか、いまでもわからない。
でも、わからないまま、ずっと、心の奥で重さを増している。
何気ない言葉のかたちをしていたけど、あれはきっと、
彼女のすべてだったんだと思う。
あの瞬間から、ぼくの中の時間は、ずっと夕焼けのまま止まっている。
────────────ナズナの考察
彼女は、本当に存在していたのだろうか。
それとも、彼の中だけに現れた幻想だったのか。写真には映っていた。
だが、誰ひとり“知っている人”がいなかった。残ってるのは、私、〇〇なんだ。の一言。
彼が覚えていたのは、名前でも、住所でもく、その言葉が理解できないことに苦しんでるが、それは彼にとっては悪いことではないのかもしれない。あまりに耐えられないことを体が拒否した可能性もある
ナズナはこの案件をあえて“未解決”として記録した。。
未解決が解決な時もあるのだ。それが彼にとって一番の結末なら