
ナズナ、境界のページをめくる──“実験と少女リル”の次元断層
序章:ページの中にいた誰か
雨が降っていた。
ナズナは部屋の隅、ブリキの棚にもたれながら古びた漫画のページをめくっていた。
一冊の、知らないタイトルの漫画。
「リルと白昼夢」
表紙は色あせていて、背表紙には誰かの名前が油性ペンで書かれていた。
ページをめくるごとに、ナズナは不思議な違和感を覚えた。
その世界は、どこまでもやさしかった。
リルという名前の少女が、白く光る空の下で何かを探していた。
それが何かは描かれていない。けれど、彼女の目の奥に宿る「祈り」のような何かに、ナズナは胸を締めつけられた。
──ふと、ページの隅で、リルがこちらを見た気がした。
ナズナは小さく笑い、ページを閉じた。
けれどその瞬間、部屋の空気が震えた。
窓の外から、雷とは異なる、低い“振動音”が響く。
そして机の上の携帯が鳴った。
件名:【至急対応】
量子AI第六実験体、次元構造の異常干渉を検出。
首都第7層観測域、現実流出反応あり。
対象:実験下記憶構造群“リル”。
ナズナは顔を上げた。
この世の理が、静かに軋んでいた。
第一章:雨の東京、次元が裂けた日
現場は、高層ビルの谷間だった。
ナズナは黒いレインコートに身を包み、雨に濡れたアスファルトを踏みしめていた。
そこには、誰もいないはずだった。
けれど、現実の“目”には映らないはずの空間が、わずかに“揺れて”いた。
建物と建物の隙間、わずか三十センチの隙間。
その奥に、小さな誰かの影がいた。
ナズナはしゃがみ込み、そっと声をかけた。
「……リル?」
影が、こちらを見た。
白いワンピースに濡れた銀髪。
足元には、濡れたページの切れ端が散らばっていた。
「……わたし、どこに来たの?」
彼女は怯えていた。
ナズナが差し出した手を、少しの間見つめたのち、そっと握り返した。
第二章:彼女の名前は“リル”
ナズナの部屋に連れ帰ったリルは、ずっと窓の外を見ていた。
外ではまだ、雨が降り続いていた。
「あなたの世界は……ずいぶん、怖いね」
彼女は静かにそう言った。
「誰も、知らない人に声をかけない。
電車の中は黙っていて、道で転んでも誰も助けてくれなかった」
ナズナは、彼女の話を黙って聞いていた。
リルは、自分が“描かれた世界”の住人だと自覚していた。
「漫画の中は、ルールがあった。
誰かが傷つけられるときは、かならず“意味”があった。
でもこっちは、意味がないの。優しくされる理由も、ひどくされる理由も」
リルはナズナを見つめる。
「ねえ、ナズナさん。 わたしって、あなたたちからしたら“作りもの”なんでしょ?」
ナズナは、答えなかった。
第三章:否定される世界に生きて
ナズナは情報を集めた。
漫画「リルと白昼夢」は、十年前に打ち切られた作品だった。
作者は既に活動をやめていて、リルの物語は途中で終わっていた。
けれど、リルの中には“続きを生きようとする意志”があった。
ナズナは思った。
この世界で生まれた物語が、心を動かすなら──
それはもう、現実ではないのか?
「リル。君が感じてること、ここにいること、それを“作り物”って言える人がいるなら──
その人の“現実”って、どんなに薄っぺらなんだろうね」
リルは、すこしだけ笑った。
第四章:戻るための条件
リルは言った。
「みんなに、会いたい」
それは、家に帰りたいという願いと同じだった。
ナズナはリルを元の世界に戻す方法を探る。
条件はひとつ──
「彼女の物語が“まだ必要とされている”と証明すること」
ナズナは「リルと白昼夢」の読者を探した。
古い掲示板、絶版漫画のフォーラム、記憶の片隅に残る名前。
少しずつ、「好きだった」という声が集まっていった。
リルは、そのたびに少しずつ笑顔を取り戻していった。
最終章:白紙のページへ帰る
その夜、ナズナの机の上にあった漫画が、ひとりでに開いた。
光のような“描線”が浮かび上がり、リルの輪郭が淡く揺れた。
「ありがとう、ナズナさん。あなたがわたしを信じてくれたこと── それが、わたしの世界の続きを作ってくれた」
リルは微笑んだ。
静かに、ページの中へと還っていく。
数秒後、部屋にはただの漫画が一冊、静かに置かれていた。
しかし──表紙には、見たことのないサブタイトルが書かれていた。
「第11話 少女は、境界を越えて」
ナズナはそのページをそっと開いた。
そこには、リルが振り返って──
かすかに笑っていた。