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霧

幽霊の街──異界に消えた家族と、父が殴ったもの

1|依頼──一刻も早く、助けないといけないんです

「ナズナさん……信じてください。僕は、あの街で、家族を見失いました」

男の声は震えていた。

けれど、言葉は一つひとつ正確で、曖昧さがなかった。

何よりも──切迫していた。 それは“狂気”ではない。 本当に何かが起きた人間が持つ、確信に近い恐怖。

「僕は、妻と、小学2年生の息子と三人で、温泉旅行に行ってたんです。帰り道、夕方に少し道を間違えて……。小さな、古びた街に入り込んでしまったんです」

男は“迷った”と言った。

だがそれは単なる道の話ではない。 彼の話す街は、地図に存在しない。 GPSには表示されず、帰ってきたあと警察に通報しても、「その街は存在しない」と言われた。

「妻と息子が、トイレに行くと言ったんです。小さな木造の建物があって、“公共トイレ”らしき文字がかすれて読めて……。僕は車で待ってた。でも、30分経っても戻ってこない。探しに行ったけど、中には誰もいない。というより、人間そのものが、誰もいなかったんです」

男は翌日まで街で待った。 寝ないで、車の中で、何度も走って探し回って。 夜通し探し、朝が来ても誰も戻ってこなかった。

そして、ようやく市街地まで戻って通報したが──

「“そんな場所はない”って、言われました。警察も、親族も、みんな……僕の話を疑ってるんです。でも……でも、確かにあったんです。あの街で、家族が──消えたんです!」

男は目を伏せた。だが次の瞬間、顔を上げた目は強かった。

「でも……このままじゃ間に合わないって、直感で思ったんです。何かが……あの街が、家族を飲み込もうとしてる気がして」

「それで、ネットを探したんです。誰か、こんな理不尽を信じてくれる人を……」

「そこで……“ナズナさん”のことを知ったんです」

「“現実にない事件”を、あなたが扱ってるって……そう聞いて、いてもたってもいられなくなって、メールしました」

2|データ収集──その紙切れを、もらってませんでしたか?

ナズナはまず、男の“記憶”からその街を再構成しようとした。

名前はない。看板も見えない。 建物は古びていて、誰もいない。霧が濃く、全体が白く霞んでいた。

だが、ある一つの情報が、ナズナの脳を一瞬で冷たくした。

「そういえば、息子が……妙な紙を持ってたんです。温泉街に変な露店があって、駄菓子でもない、小さな折り畳まれた紙切れを“これ、もらった”って……。あいつ、すぐ欲しがるから……」

ナズナは立ち上がった。

──それです。

「紙に、何か書いてありましたか?」

「見たこともない文字でした。漢字っぽいけど、違う……。でも本人はすごく気に入ってて、ずっとポケットに入れてました」

ナズナはその場で確信した。

それは、**“異界の通行証”**──「その紙があれば、街に“入れる”が、同時に“出られなくなる”」ものだ。

さらに恐ろしいのは、「その紙を持っていない人間は、街に“入れない”」ことだった。

「なるほど。だから、あなたは追いかけられなかったのか……」

ナズナは息を整えた。
今、家族はその街に“閉じ込められている”。
紙が通行の証であると同時に“縛り”になっている。

──早くしなければ。 この世界の常識では、彼らは“もう存在しない”ことになっているのだから。

3|推理──その街は、誰かが「羨んで」作った

ナズナは、温泉街の構造と観光データを洗い直した。

その地域には、かつて「霧神」と呼ばれる地縛信仰があったという。

“よそ者が幸せを持ち込んだとき、霧の神はそれを妬み、足元をねじまげる”──

そして思い出されたのが、子どもがもらった紙切れ。

ナズナの推理はこうだ:

ナズナは言った。

「あなたの家族は、あの露店の存在によって、街へと引き込まれました。あなたの息子さんが手にした“紙”が、それを可能にしたんです」

4|仮説──愛が条件を超えるなら

「じゃあ、どうすれば……。あの紙がない限り、僕は中に入れないんでしょう?」

「……通常は、そうですね」

ナズナは答えた。

「でも、街の側が“交換”に応じる可能性はあります。対価を払えば、別の通行証を得ることができるかもしれない。問題は、その“対価”が……」

「何を差し出せばいい?」

「たぶん、“あなた自身”の一部でしょうね」

5|実行──父、叫ぶ。「出てこい!」

ナズナと男は、夜、現地へ向かった。

古びた街道に、街の入り口が現れる。 しかし、露店はない。人気もない。ただ、霧が深く立ち込めていた。

男は叫んだ。

「おい……いるんだろ! 返せ、俺の家族を返せ! 出てこいよ、化け物!!」

そのときだった。霧の奥から、くぐもった笑い声が響いた。

「あれほしい? でもなにくれる??」

ナズナが身構える。

男は答える。

「何でもくれてやる……家族を返してくれるなら!」

「んー、じゃあ……ユビちょーだい」

ナズナが止めようとしたそのとき── 男は、自分の車のドアを力いっぱい閉めた。

バキィッ。

骨が砕ける音。指が不自然に曲がる。

「あああああっ!!」

「……まいどありぃ〜〜」

6|逆転──異界の存在を、父が“殴った”

その瞬間、霧の奥に“黒い人影”が現れた。

歪な顔、複数の目、笑い崩れた口。

男はその姿を見逃さなかった。

怒りと愛が爆発した。 彼はもう一方の拳で、そいつの顔面を殴った。

ゴシャ。

異形の存在が仰け反り、笑いながら霧の中へ消えていく。

その足元には、**銀色のコイン**がいくつも落ちていた。

「あなた……異界のものを、殴ったの……? 私、初めて見たわ……」

ナズナはぽつりと呟いた。

7|再会──コインが“道”になる

そのコインが、“もうひとつの通行証”だった。

ナズナと男はそれを持ち、再び霧の中へ。

街が、形を成していく。 音のない町並み、存在しない地図の街。

ナズナは耳を澄まし、風の音、空気の流れから“人間の気配”を探る。

そして──見つけた。

倒れた母と泣きじゃくる息子。

「とうちゃん……!」 「あなた……!」

その場で、全員が泣き崩れた。

──確かに、信じてた。 あなたは、絶対に来てくれるって。

8|あなたに託す──ナズナの語り

私は、電脳探偵ナズナ。

あの街は、どこにも存在しなかった。 けれど、間違いなく“ここに”あった。

通行証、交換、異形、霧の街。 それらはすべて、ひとつの願望に集約される。

──「あんな幸せ、壊してやりたい」

その感情から生まれた異界。 だが、父の叫びと拳が、それを上回った。

“愛”は、異界すら上書きできる。

男は、すべてのコインを、街の真ん中で投げ捨てた。 それは、“もうここには戻らない”という決意の表明。

そして街は、音もなく霧に沈んだ。