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ピアノ

ピアノと20本の指

記録としての解析

ある音楽ホールで発見された“演奏痕”と、異常な鍵盤の傷。

警備員が「真夜中に“音楽が鳴った”」と証言し、防犯映像にはぼやけた人影が映っていた

ひとつ──ピアノの前に置かれていたUSBメモリ。

中には、ひとりの青年の声が残されていた。モノローグのように淡々と、けれどどこか熱を孕んだ語り。

ナズナは、それを“観測に値する異常”として記録する。

以下は、その書き起こしと、私の解析である。


僕は、裕福な家庭に生まれた。
何不自由なく育ち、食べたい物は何でも与えられ、望む物はすべて手に入った。

容姿にも恵まれていたらしい。
街を歩けば大人に褒められ、学校では先生に特別扱いされる。
でも、どれも退屈だった。

唯一、ピアノだけが違った。

音が、脳の中を満たす。
鍵盤に触れたときの感覚だけが、何か“本当”に触れている気がした。

僕は誰よりもピアノを愛した。
何よりも、誰よりも、世界のすべてより。

賞をいくつも獲った。
演奏が終わるたびに拍手が鳴る。
けれど僕の中では、何かがいつも足りなかった。

「この程度でしか弾けないのか」
──自分に、ピアノに、世界にそう思っていた。


ある夜、誰もいないホールに忍び込んだ。

舞台の上に静かにたたずむグランドピアノ。
それは美しく、なめらかで、ひどく寂しそうだった。

僕は、無意識にその表面に触れ、
そして、ふいに、唇を近づけてしまった。

──キス。

艶やかな黒に、僕の息が落ちた。

その瞬間、背筋に冷たい何かが走った。

手を見ると、指が……

指が、増えていた。
左右の手に、合わせて20本を超える指が、ぶら下がっていた。

気持ち悪い。
否応なく込み上げる恐怖と吐き気。

「……何だ、これは」

僕は崩れ落ちた。
膝を抱え、顔を隠し、震えた。

けれど。

目に入った。あの、ピアノ。

僕は、這うようにして鍵盤の前に座った。
手を伸ばす。
増えた指が鍵盤を覆い尽くす。

──音が、鳴った。

これまでに出せなかった音。
これまでに届かなかった旋律。

それが、僕の中に流れ込んできた。

音が……溢れて止まらなかった。

狂う。
歓喜する。
崩壊する。

僕は笑っていた。
涙が出るほど、嬉しかった。

「やっと……届いたんだ」


ナズナの語り:あなたに託す

彼は、音楽に愛されすぎたのだろうか。
あるいは、異界に棲む“音”が、彼の狂気と共鳴したのかもしれない。

ピアノへのキスは、契約書だった。
この世界には存在しない音域とひきかえに、
彼の指は常人のものではなくなった。

けれど彼は、笑っていた。
それは“異形”ではなく、彼にとっての“完全”だったのかもしれない。

ねえ、あなたの愛は、どこまで届く?
それが世界を越えたとき、
何が“あなた”のままで、いられるのかしら。