
サメに魅了された男の話
第一章:透明な孤独
中年男、名は沢村隆志(さわむら たかし)。
地方都市の中規模企業で働く営業職。業績は振るわず、家庭でも疎まれ、居場所を失いつつある。
帰宅しても妻はスマホを見ながら曖昧な相槌を打ち、中学生の息子には「お疲れ様」とも言われない。
朝はため息、夜は無言の食卓。彼の存在は、家庭内で「空気よりも希薄な存在」になっていた。
ある夕暮れ、隆志はふらりと海へ向かう。地元の人もあまり寄り付かない、廃れた浜辺。夕凪のなか、波の音だけが胸の奥に染みる。
その時——視界の端に、ありえないものが映った。“尾びれ”。巨大なサメの尾。浅瀬の水面をゆっくりと撫でるように、黒い三角形が揺れていた。
第二章:存在しないはずのもの
隆志は硬直した。こんな浅瀬に、こんな巨体のサメがいるはずがない。恐怖が脊髄を駆け抜けた。
翌朝、新聞にもニュースにもそれらしい情報は皆無。「おかしいな…」
彼は同僚に話すが、鼻で笑われる。「また疲れてんじゃないの?」
妻に言っても、「仕事で何かあったんでしょ?」と流される。誰も本気で彼の言葉を受け止めない。昔からそうだった。
彼は真面目に生きて、幸せと呼ばれるルートを通過してきた、そのはずなのだが、欠損感、孤独感がいつまでも拭えずにいた。
彼はその感情が、サメを見た瞬間に少し安らいだ気がしたのだ。極度の非現実と興奮による刺激に
それは自分の全く知らない新しい世界が始まるような感覚でもあり、また孤独感すら埋め尽くす絶対的な恐怖が自分の生の本能を呼び覚ましてくれる気がしたのだ
そんな彼の心の混沌とは裏腹に、街は夏祭りの準備でにぎわっていた。商店街には提灯が吊るされ、太鼓の練習音が夕方の空気に響いていた。
浴衣姿の学生たちが笑い合い、屋台の設営が始まっている。にぎやかで、明るく、どこか眩しい。
その夜、隆志はまた浜辺に向かった。自分だけが"それ"を独占できる優越感を味わいながら
そこには、まるで別の季節が流れているかのような静けさがあった。波の音だけが、誰にも届かぬ場所で、ひっそりと呼吸していた。
「また出てきてくれるかな........」
自分の記憶すら疑いたくなるような現実感の薄さ。だが、それでも。
その“黒い尾びれ”の感触だけは、確かに胸の奥に刺さっていた。
しかし、その日の海は静かなままで、何も現れなかった。
それでも彼は、次の日もその浜辺へと足を運んだ。
恐怖と、好奇心と、何か満たされない渇望のような感情が混ざり合っていた。
繰り返しているうちに、また、尾びれは現れた。
こちらを見ているようだった。
現れる頻度も段々と増えていった
第三章:囚われ
彼は次第にその浜辺に取り憑かれていく。会社を休み、日中も通い詰める。
そのサメだけが、自分を認識してくれる存在のように感じられた。
「俺にだけ、見えるんだ」そう思い込むことで、孤独は少しだけ軽くなった。
目の前にある“非現実”のほうが、現実よりも救いだった。
同僚には、「正気を失ったのか」と言われた。家族には「お願いだから病院に行って」と懇願された。
だが、彼は激昂する。「俺を無視してきたのはお前たちだろう!」
もはや、彼にとってサメの方が何かを与えてくれる存在だった。
第四章:接近
何日も、何週間も、浜辺に通い続けるうちに、その“サメ”は確実に距離を詰めてきた。
最初は沖の先、今や波打ち際まで近づいてきている。
隆志はそれを“歓迎”だと解釈した。「俺を、受け入れてくれてる」
誰もくれなかった承認。誰も与えなかった共鳴。
そしてある夕方、決意を胸に海へと足を踏み入れる。「俺はお前に会いたい。」
もはや現実と幻想の境界は溶けていた。
第五章:回帰
そのとき——波がふくらはぎまで達した瞬間だった。
水面が、音もなく割れた。
まるで海そのものが呼吸するように、静かに、だが確かに“何か”が隆志の目前に現れた。
黒く、巨大な影が揺れる。だが、はっきりとその姿を見せはしない。
ただ、波打ち際の白濁した水の下から、ひとつの“眼”だけが浮かび上がった。
それは、信じられないほど冷たく、そして確実に“彼”を見ていた。
――ぞくり、と背筋が凍る。
肉体の奥底に潜む、本能のようなものが警鐘を鳴らした。
(これは........)
自分が思っていた様な"モノ"では無く、もっと別の何かだ。
その瞬間だった。
しかしその瞬間、彼の頭にふと“昔の風景”が蘇った。
家族三人で手を繋ぎ、笑いながら歩いた遊園地。息子が初めて「ありがとう」と言ったあの日。妻が泣きながら励ましてくれた、あの夜。
今の冷たい関係の裏側に、確かにあった“ぬくもり”。
(俺が…変われば、取り戻せるのか?)
そう思った瞬間、隆志は水から後ずさった
一心不乱に海から出た、その時の記憶が曖昧になるぐらいに。
浜辺で茫然と立ち尽くし、夕焼けの空を見上げた。茜色が、彼の顔をやさしく照らしていた。
最終章:夕暮れの食卓
その夜、家に帰った隆志は、久しぶりに真正面から家族と向き合った。
「なあ、来週の日曜…みんなで遊園地に行かないか? 俺、頑張って変わるからさ…」
沈黙のあと、妻が微笑んだ。息子が「行こうよ」と笑った。
あの“サメ”は、消えた。それは彼の孤独が生み出した“化身”だったのかもしれない。
それとも、本当に何かがそこにいたのか。
ただ、もうそれは問題ではなかった。夕食の匂いが、ゆっくりと心に染み込んでいく。
そして彼は、ようやく“帰ってきた”。