
青の深さ
日曜日。静かな朝。
ナズナは、ささやかな用事をいくつか片づけた。
近所の本屋で予約していた本を受け取り、古びた靴を修理に出し、ついでに小さなパン屋でクロワッサンを買った。
誰にも会う予定のない休日。それでも、彼女は少しだけ気を遣って服を選んだ。
グレーのワンピースに、黒のカーディガン。髪は風にほどけないよう後ろで束ねる。
その足で向かったのは、公園だった。
子どもが鳩を追いかけ、年配の夫婦が並んで座り、風がゆっくりと木々の間を流れていた。
ナズナは、池のそばのベンチに腰を下ろす。
空を見上げる。
その青さに、一瞬だけ、深い静けさが胸の奥に降りてきた。
鞄からノートを取り出す。表紙は擦れているけれど、手に馴染む重さが心地よかった。
仕事の記録ではない。
そこには彼女の“ひとりの人間としての言葉”が書かれている。
ナズナは、ページを開き、少しだけためらってから、ペンを走らせる。
そして──そのまま、心の底に眠っていた言葉が、静かにあふれ出した。
空
空は真っ青で、どこにも境界がない。
上も下もない、ただ空間がそこに広がっている。
雲は薄く、青い風でなぞったように裂け、光をまとって揺れていた。
この世界は他に何も存在しないかのようだ
僕は、そこを突き抜けていく。
金属の翼と、燃えるような推進剤。機体は、けたたましく透明を突き破る
エンジンは、うねる。
リズムを刻む、低くて重い、鼓動のような轟音。
それはもう“音”ではない。
空を押し返す力、空気をねじ伏せる“意思”だ。
キャノピー越しに、地平線が見えた。
そこは、ただの境界じゃなかった。
青と橙が、ゆっくりと交わりが完全に溶け合い光の帯のように、空と地を繋いでいた。
夕焼けか?
あの光は、優しい終わりだ、どこまでも遠く感じる終わり。
今この一瞬を、僕はただ黙って、見つめていた。
スピードの中にいると、過去も未来も、どうでもよくなってくる。
空に包まれていること。
宝石みたいな光の粒子を突き抜けていること。
ただそれだけが、真実だった。
風が機体を叩くたびに、僕の心臓が震えた。
それが怖くてじゃない。
ただ湧き上がる。
エンジンの唸りと共に僕はこのすべての中で存在する
涙。
僕はまだ帰らない。
まだ、青が深い。
まだ、風がやまない。
まだ、、、
ナズナはペンを置いた。
その手は、わずかに震えていた。
けれど、それは迷いの震えではなかった。
ただ、静かだった。
──それは詩ではない。記録でもない。
ただ、彼女の中にしかない景色。
誰にも話さなかった、心の中の「空の奥行き」。
ふと、公園の空をもう一度見上げる。
雲が切れ、光が差し込んでいた。
「……まだ、青が深いわね」
彼女は、そっと微笑んだ。