
夏の影は、振り返らせない。
――それは、夏の夜道にだけ現れる。背が高く、音もなく、ただこちらを見ている。近づいてきているのに、誰も気づかない。
【第1章:帰省】
夏。都会の喧騒を離れて、私は古い田舎駅に降り立った。セミの鳴き声、線路脇の草むら、湿った土の匂い。
ここは母方の実家がある町。山と川に囲まれたこの土地には、電車が一日数本しか来ない。それでも、私は毎年一度だけここに帰ってくる。記憶の底にある何かを、確かめるために。
家に着いたその日の夕方。祖母が炊いた白ご飯の香りと、台所に揺れる風鈴の音の中、私はふたりの少女に出会った。
「ナズナさん……助けてほしいんです」
その声は、庭で遊んでいた近所の子どもたちの中でも、ひときわ怯えを含んでいた。話しかけてきたのは、芦田リコ(小6)と西山マナ(小5)。姉妹のようにいつも一緒にいるふたりだった。
【第2章:依頼】
彼女たちの話はこうだった。
- 夏休みの夜、遊びから帰るために田んぼ道を歩いていると、「高い影」が必ず後ろに現れる
- はじめは遠くの街灯の下に立っていたが、去年はもう十数メートルまで近づいていた
- 歩く音も、気配もない。ただ、見られている気がする
- そして、今年もまた、気づいたら“もう始まっていた”
「一度だけ、友達の一人が振り返ったんです」
マナが言った。「そしたら次の日から、学校に来なくなって、町を引っ越して……それっきり」
地元の大人たちは何も言わない。誰も信じようとしない。だから彼女たちは、私に助けを求めてきたのだった。
「ナズナさん、あれは人じゃないと思うんです。でも、どうしても毎年、近づいてくるんです」
【第3章:調査】
私はまず、過去10年分のこの地域の不審者情報、失踪記録、通報履歴、天候データ、方位磁針異常、果ては動物の異常行動報告までを集めた。
その中で、共通して浮かび上がったのは、“7月20日から8月24日”の間にだけ、特定の夜道沿いで「異常な静寂」が記録されていたという事実だった。
- 虫の鳴き声が突然止む
- 風が止まる
- スマホの加速度センサーがわずかに乱れる
- 猫や犬がその道を避ける
まるで“何か”がそこにいることを、世界が息を潜めて知らせているかのようだった。
さらに、この村には江戸末期から続く古い文書が残っており、そこには“夜通し歩く影”の記録が複数見つかった。
「己の死を知らぬ者、田の端に現る。影を見し者、振り向くべからず」
【第4章:推理】
「これは、“近づく霊”ではない。“思い出される存在”なのよ」
ナズナの推理は、通常の怪異とは異なる角度に向かう。
これは単なる“怪異の接近”ではない。むしろ、「忘れていた者を、こちらが思い出してしまうこと」によって、接近が加速する。
- リコとマナは、過去に影と接触している可能性がある
- 毎年少しずつ近づくのは、記憶の再構築プロセス
- “影”は追ってくるのではない。呼ばれて、戻ってくるのだ
つまり、この“黒い影”は、ふたりが何かの拍子に出会ってしまった、“自分たちの記憶の迷子”だった。
では、なぜ危険なのか?
記憶とは本来、確定した“過去の情報”だが、これが変化を始めたとき、“現在の存在”と衝突を起こす。
影が近づくのは、ふたりの“現在”を飲み込んで、自分の居場所を取り戻すため。
【第5章:儀式】
ナズナは対策を立てた。
- 村の古地図と現在の地形を照合し、「影が通る道」を特定
- その道に、微弱な反射素材と記憶干渉型AIを設置(視界の裏に“思い出し”を分散)
- ふたりには、かつて遊んでいた場所、風景、人物などを断片的に話してもらい、“影の正体”を特定していく
数日後、ふたりの記憶の中から浮かび上がったのは──
「昔、田んぼの中で“もうひとりの自分”を見たことがある」
それは、ある夏の夕暮れ。遊び疲れて眠りかけたとき、畦道の向こうに立っていた“背の高い女の子”。
「目がなかった。なのに、笑ってた」
【第6章:対峙】
8月15日。夏祭りの日。
ナズナはふたりを連れて、件の田んぼ道を歩く。夜風はなく、空気はぬるく、星は濁っていた。
午後9時43分。影は、現れた。
最初は遠くの山の稜線に。次に、電柱の裏に。そして、彼女たちの背後に。
リコとマナは震えていたが、ナズナはゆっくりと口を開いた。
「名前を、呼んであげて」
ふたりは、重ねるように言った。
「ユメノ」
その瞬間、影の足が止まった。
そして、一歩、また一歩と遠ざかっていく。
目を持たない少女の影は、静かに夜の向こうへと戻っていった。
【第7章:夏の終わりに】
影は、それ以来現れなくなった。
リコとマナは翌朝、夢の中で「ユメノ」と名乗る少女と花火をして遊んだと言った。
記憶は確定した。あの影は、彼女たちの“過去に取り残された存在”だった。
「振り返らせなかったのは、怖かったからじゃない。まだ名前を、思い出されていなかったからよ」
夏の夜にだけ現れる背の高い影。
それは“忘れられた記憶”が、自分の居場所を探して歩く姿だった。
【ナズナの結び】
「記憶は時に、存在そのものになる。
忘れてしまった者は、名前のない影になる。
でも誰かが、名前を呼び戻してくれたなら。
きっと影は、もう夜道を歩かなくて済むのよ」